古琉球紅型浦添型研究所
1985年、那覇市の国際通りにオープン。
当時、「沖縄産業デザイン振興会」や「工芸振興センター」の理事を務めていた伊差川新の工芸に対する熱い想いを肌で感じてきた娘、洋子が父と共に全国のクラフトマンの仕事を紹介する空間として「びんクラフトギャラリー」を設立。“作り手から使い手へのメッセージ”をコンセプトに、90回余りの企画展を開催してきた。
1989年には、「九州クラフトデザイン展」の受賞作品を展示、沖縄の工芸家に大きな刺激となり、ひとつのウェーブとなった。
現在は、豊見城市にある伊差川洋子染色工房の2階に併設され、伊差川洋子の作品を中心に沖縄の染織品を紹介する。年末に開催する「紅型市場展」を主な企画として運営している。
ハレの日を間近にした娘たちを美しく装わせたいという 親の気持ちに娘たちは、「振袖より、車かパソコンのほうがいい!」「きものは、めんどくさあいし、無駄」とケンもほろろの 返事が一般的になっています。 確かに、窮屈で、何回着るかわからない「振袖」の おカネをかけることは「無駄」なことかもしれません。
戦後、女たちは長い髪を切り、いとも簡単に、日本古来からの「きもの」を脱ぎ棄てて、自由になりました。家の中からは、「量」の生活が少なくなり、イタメシやフランス料理を好んで食べるようにもなりました。街中では、若者が茶髪や、ブルー、グリーンのコンタクトをはめ、まるで外人のようにパフォーマンスに興じています。
合理主義という名のもとで、私たちの先祖が、何百年 という「歴史」をかけ、「培ってきた日本の文化」の、ひとつ一つが今、怪しい状況になっています。 日本の伝統文化を真摯に支えてきた「職人」が、 今、瀬死(ひんし)の状態となっています。 「きもの」を、着る女性が少なくなった現在、 和紙を漉(す)き、渋をぬるといった技の継承に、 長く後世に残っていってほしい「型紙職人」や「型彫師」が 喘(あえい)でいるのです。
かつて祖母や母が、仕立て上がりのきものの衿を柱に こすりつけ、「娘が健康で成長しますように・・・」と 祈ったのはもう遠い昔の話だけとなったのでしょうか。 着かけたきものが、風通しのため、鴨居(かもい)に 何枚もかけられた風景は、もうみることがないのでしょうか。 祖母から母へ、そして娘から孫へ、「一枚のきもの」から 家の歴史や、文化を語り、伝えていきたいものです。
こうした不安定な時代にあっても、美しいもの、 よいものをつくりたいと頑張っている若者も大勢います。
そんな「作り手」たちだけではなく、「使い手」たちも一緒に 「日本の文化」を守っていこうとする気概をもってもらえたら、 とただただ願うのです。
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